「夫(それ)茶湯は人の心を豊かにし、友の交りを厚くし、なべて世の融和をはかるを本意とす」
自らの茶の湯思想やその理念を、明確に言葉で表現したものが極めて少ない、益田鈍翁の言葉である。見事にその本質を言い切っている。
今年の口切りの茶事は、鈍翁の「万歳ゝゝ万ゝ歳」を掛けた。八田円斎の滑らかで美しい、繊細な仕事の終結である茶壺を使う時、私はいつもこの軸を広げる。渡辺喜三郎の炉縁は、透けるような漆の美しさとその材の堅く歪まぬみごとな直線を見せつけ、シンプルである中に本当の底力を示す。このような当時の茶の湯にふれる空気の中で、再び茶の湯そのものの在り方を考える機会を得た。
ご存じのように、博報堂の代表でもあった近藤道生の父は鈍翁の主治医であり、晩年の二十年間、臨終に至るまで脈を取り続けていた。まさにその当時の鈍翁の生きざまを手に取るように見てきたはずである。十八歳まで、父と鈍翁の交わりをその傍らで見聞きしながら、時には共に参加していた近藤は、様々な著書で鈍翁について語っている。
彼は、鈍翁の特別な人となりとして、幕府の力が衰退する中で明治時代を迎えてゆく頃に人格形成が成されたせいか、先ず鈍翁が物事を根源的に見据える目の鋭さを持ち合わせていることを上げる。二点目には、黒船に負けてたまるかという不屈の愛国心がありながら、ハリスの誠実さと勇気に対する驚きから国際友好感覚を併存できた柔軟さに着目する。三点目に、佐渡から東北、函館、そして江戸に移り、維新の四年前、十六歳の時に幕府の第三回外国派遣使節団の一員として上海、インド、エジプト等を経てナポレオン三世のフランスまで行っているという、幼少期における実地見聞の異常な広がりを指摘する。
鈍翁がなぜこのような人間になり得たのか。それは鈍翁の父鷹之助が、青少年期の鈍翁徳之進に、当時としては最高の教育の機会を与えたことに起因するであろう。十一歳、函館の奉行所では、早朝から手習、四書五経の素読、剣術、槍術、馬術、水泳等の稽古、英語の授業も受けさせた。江戸へ出てからも英語の能力を買われ、幕府学問所教授方の門に入り朱子学による素読も受けて、十四歳で難しい試験をすんなり通って任官している。
非常に興味深いのは、近藤が似たような環境に幼少年期を過ごした大人物を上げ、益田孝は俊敏さと透徹した鑑識眼とで抜きんでており、福沢諭吉は時代感覚と人材養成の熱情に優れ、渋沢栄一は事業の遂行能力と円満な人柄に恵まれていたと考えられる、と捉えている点である。
「茶の湯 雲外老生」と標記され、僅かに記された鈍翁の言葉は更に続く
「茶の湯とて常にはづれし式はなし、奢り虚 礼は大の禁物、只真心こめて交るをば、茶の湯の則(のり)となさむのみ、時移れば世も変わり、衣食起居はいふに及ばず食餌さへかはりゆく、人に対して昔の習ひにのみ捉はれ客に窮屈なるおもひをなさしめ、常識に外れ世につまはじきせらるることは、茶の本意にあらざるべし(中略)故にいはむ、茶の湯の掟は常識を外るべからず、常識を離れては茶なしと」
茶の湯だからと言って常事に外れた式はない、奢りや虚礼は禁物で、ただ真心をこめて交わることが法であるようなもの、時が移れば世も変わる、衣食や日常生活はいうに及ばず食事さえも変わりゆく、人に対して昔の習いにのみとらわれ客に窮屈な思いをさせ、常識に外れて世につまはじきにされることが茶の本意ではない、故に言う、茶の湯の掟とは常識を外れてはいけない、常識を離れて茶はないと。
「茶是常識」を貫いた鈍翁の哲学である。以前論文執筆の際、尊敬する堀越宗圓と鈍翁とのかかわりを調べる中で、年老いた鈍翁が茶事の際、膳を自分で運ぶ姿を読んだ。いつの時代も、多くの偉大なる先達の、文字に残されていない心の声こそ聞かなくてはいけないと、茶事を終えて今また痛感している。
令和3年11月29日 畑中香名子


